Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

現代しりとりの基本戦略

目次

概要

 しりとりを頑張った時期があったので、当時採用していた基本戦略について書いた。

 本記事は頭脳スポーツ「しりとり」でガチ勢たちと戦うためのものであり、決して、友達との暇つぶしに使うような非戦略的なしりとりを扱ったものではない。ご了承いただきたい。

 

いろいろな語群

リーサルワード(「ぢ」で終わるもの)

 言うまでもなく、しりとりで戦う上で必ず押さえるべきなのがこれである。

  • はなぢ(鼻血)
  • ちぢ(千々)

 日本語で「ぢ」が現れるのは、「ち」に続くときと連濁のときに限られる。「ぢ」が語頭に来ることはないので、これらは一撃必殺の単語である。したがって、しりとりでは「は」または「ち」で終わる単語を言ってはならない。

 ちなみに、「切れ痔」は「痔」をもとにした語であり連濁ではないため、「きれじ」であるとするのが一般的だと思われる。

 

回数制限ワード(「づ」で終わるもの)

 返せる回数が限られている特殊な単語群。以下の単語はゲーム中4回目に発されたときに必殺となる。ゲームの進行に大きく関わる単語群であり、ほとんどのしりとりはこれらによって決着する。

 あいづ(会津)、きさらづ(木更津)、ねづ(根津)など。

主に地名を使うため、地名の使用について合意に至っておく必要がある。

 

 返せる言葉は現時点では以下の3つだと思われる(対戦ルールに依存する)。この単語群の数が対戦環境に大きく影響する。

  • づけ(漬け)
  • づら(かつらのこと)
  • づぃめりー(洋服ブランド)

     なお、「づけ」は「けづ(毛津)」によってカウンターされるため、実質的には機能しにくい。また、伸ばし棒のルールによっては「づぃめりー」は「いさづ(伊佐津)」などによるカウンターを受ける。これについては後述する。

 

攻撃用ワード

  • 「ぷ」で終わるもの
  • 「ず」で終わるもの

    しりとりにおける語末の攻撃力は、その語末をもつ単語の数と、それらを語頭にもつ単語の数とのバランスによって評価される。上に示した語彙は特に枯渇しやすい。長期戦では重要になる。

 

非リーサルワード

  • こころもちゐ
  • しんべゑ

 これらの言葉は一見すると強力そうだが、下記のような言葉によって容易に返せる。したがって、一撃必殺にはなりにくい。

  • ゐた・せくすありす(森鴎外の小説)
  • ゑびす(企業名・七福神

 

戦略

 攻撃用ワードは、必殺ではないため短期決戦ではほとんど役に立たない。しかし、長期戦になればなるほど語彙が枯渇しやすい。

 回数制限ワード周りの駆け引きに相手を集中させ、攻撃用ワードで語彙を削っていくのがよい。相手がうっかり回数制限ワードに繋がる語末の使用回数をオーバーしたときには、逃さず必殺をかけるようにする。

 これが基本的なゲームの流れである。

 

単語採用ルール

 競技中にはしばしば紛争が起きる。そのためルールについて事前に合意を取っておくのが重要である。

 また、リーサルワードや回数制限ワードを使いにくくするルールを設定すると、短期決戦になるのを防ぐことができる。競技時間に合わせてゲームスピードを調整してほしい。

 ルールの例を以下に示す。

  • 地名禁止

 回数制限ワードのほとんどは地名であるため、それらを禁止することでゲームスピードをかなり下げることができる。ゆったり楽しみたいとき向け。

 いずれにしても、地名には何らかの規制を設けておきたい。個人的には、「市区町村に満たない地名を禁止する」という基準が使いやすかった。

  • 希少文字変換

 「ぢ」→「じ」、「づ」→「ず」などの変換可能ルールのこと。

    「ぢ」「づ」が必殺として機能しなくなる。しかし、語末に「ず」が来ることが多くなるため、「ず」攻めの攻撃力が高くなる。

  • 伸ばし棒の母音扱い

 母音には回数制限ワードが続くことがあるため、伸ばし棒の扱い方は勝敗に直接影響する。ちゃんと合意をとっておきたいポイントである。

  • 人名・作品名の使用

    希少文字が使われるものは戦略に影響するおそれがあるため、全面採用は危険である。

    例えば、「『アルジャーノンに花束を』」「あいだみつを」などが新たにリーサルワードになりうる。

偶然性の倫理

 我々を構成する要素に対して我々の多くは愛着を持っている。他の人が持っているそれらよりも、自分が持っているそれらを優位に立てようとするときすらある。しかし、これは奇妙なことではないか。エッセンスとしては既出の思想だと思うけれど、以前に考えたことを雑に綴る。

 

 そのような構成要素の殆どは偶然性によって作られたものである。その場で湧き起こる意欲や感情、出自、民族、言語、生存環境、体質、そしてそれらによって大きく影響されるであろう思考方式に至るまで、偶然はほとんどを(解釈によっては全てを)支配している。

 

 偶然性に依存するということは、普遍性を失うことでもある。自分が何を正しいと思うかは、自分が用いる「最終的な語彙」や思考パターンによってかなり規定される。

 

 そんなことを言い出すと、我々は確信を持って物事を主張する礎を喪うかもしれない。これから言おうとしている思いが偶然の産物によって構成されている可能性に気づくたび、その価値が削られていくように感じるかもしれない。しかしむしろ、普遍的なままでは意味をなすことはできない。「無知のヴェール」を纏った者が政治について議論できないのと同じだ。必然性と有意義さは両立しない。

 

 全ての人が偶然性に振り回されていることを念頭に置きながら、自らは降りかかる偶然の賜物を愛でればよいのだ。必然でないことが直ちに価値を貶めるわけでもない。ただ、他のものでもよかったというだけである。

 

 こうやって「偶然性」が指すものを広く捉えることによって倫理にとって良いことがあると思う。意見の違う人を、自分がなり得た存在のひとつとして捉えられたら、また違った形での他者承認を行えるのではないか。自分や他者が持つ偶然性を承認して想像力を働かせることで、世の中はもう少し寛大になれる気がする。

 

 もちろん、自身の構成要素への愛着は防衛本能の延長なのかもしれないし、そう単純な話ではなさそうだ。生物としてのそういう側面が絡んでくると厄介だ。しかし、偶然性についてこのように考えることは、他者を承認するときの指針のひとつくらいにはならないだろうか。

言葉の正しさと準安定

 「姑息」という言葉は「その場しのぎ」という意味をもつのだということを、最近になって初めて知った。狡猾・陰湿であることを示す語として日常的にはおおかた通っているものの、辞書によると前者の語義のほうが「正しい」らしいのだ。私個人は日本語の語義については保守派で、「正しさ」が怪しいものは使わないようにしている(独擅場、固執、etc.)のだが、巷ではこの種の「正しさ」に対して批判的な意見もある。この奇妙な存在について考えてみた。

 

 日常的な使用においては、「正しさ」は特に問題にならない。純粋な言語ゲームだと考えるなら、日本語はむしろ日々の実践に合わせて絶えず変化してくれても構わない。「正しさ」が問題になるのは、もっと「ちゃんとした」言語実践の場だろう。典型的なのが学術論文や契約文書などだ。言葉を好き勝手に使われるのは紛争の原因にもなるので、安定した基盤が求められる。

 

 しかし、言葉の意味を完璧に保つのは二つの理由により困難だ。まず、語が指す意味を完璧に記述することがそもそも不可能だ(∵規則のパラドックス)。それに、もしもその記述がある程度叶ったとしても、全ての語の正しい語義を常に流布し続ける必要がある。語義を完全に安定させるのは現実的ではない。だとするならば、日本語の「正しさ」とは何なのか。完璧な土台が提供されないのであれば、そもそも「正しさ」など議論できるのか。

 

 そこで思うに、日本語の「正しさ」は、いわば準安定状態として存在するものだ。言葉の意味が安定しているという感覚を作り出す虚構の基盤でありながら、語義や用法の変化を幾分か許容するような柔軟な体系。この基盤から逸脱した用法がときどき見受けられるが、そのときには、「正しさ」の旗の下にその逸脱を阻止する保全運動がとられる。「正しさ」という基盤は、まさにその逸脱と保全の運動によって束の間の同一性を得ているのだ。

 

 そして、この準安定状態の保全とそこからの逸脱との釣り合いは、日本語が変化する周期を調整する役割を果たしているようにも思うのだ。日本語の語義について保守的に動いている私は、おそらく、日本語の準安定状態を保全する側に加担している。同様に、語義の逸脱を起こすような人間も必要だ。それは他の人に任せてしまおう。

 

 安定すべきか、変化すべきか、なのではない。その二者択一から逃れることで、他者が言語に対して取るポリシーの多様性に寛容になれる気がする。

もう一段階の物心

 幼いときに描いた絵のことを思い出していた。

 お弁当のことを想いながらぐちゃついた赤い線を引き、最近見た乗り物のことを考えながら紫のクレヨンを走らせた。幼児は手がうまく動かないから、とかそういうのではない。僕はそれらを満足に表現したのだ。単なる身体的不器用さによって意図した描画がかなわなかったという気持ちはなかった。

 

 あのときは、認識そのものが混沌としていた。あるオブジェクトとそうでない部分とが、今ほどは明晰に隔てられていなかった。身近な体験で例えるならば夢の中だ。僕の生存に関わる事柄は大きく映り、今すぐ使わない道具は描画すらされない。視界は常に可塑的で、関心が移ると場面が変わる。人物の同一性すら脆い。

 小学校に入る頃には、キャビネット式の立体表現を使ってモノを描くようになっていた。「そう区切ること」と「そう描くこと」とはおそらく不可分で、どちらかが先行するようなものではない。世界は直交座標で綺麗に区切られてしまった。

 

 こんなことを考えたのは、今の自分の思考が記号的な制限を受けているように感じたからだ。むしろ、それが今の「何不自由ない」認識を実現しているともいえるような、そういう構造がある気がした。

 幼少の、これより前の出来事は想起できない、というような時点のことを「物心がついたとき」と呼ぶことがある。このタイミングよりも少し後に、記号や象徴によって世界を認識し始める瞬間があるように思うのだ。

 「ナマの認識」をしていた頃の記憶はほとんど残っていない。象徴化された記憶よりもデータ量が多いからなのか、あるいは、これまで何度か想起しているうちに記号的に再構成してしまったからなのか。

 

 この絵の記憶が、今残っている最後のストックだ。ふと、書き留めなくてはと思った。僕はこの先、それを喪失したことすら忘れてしまいそうだったから。

超越論的「解明」の気持ち

 超越論的現象学において、「解明された」という言い回しに違和感を覚えることがよくある。現象学用語や特別な名辞を用いて出来事を記述したときに、しばしばこの言い方がされる。まあそんなもんだろうと場当たり的に済ませていたが、常にもやもやしていた。僕が理系畑の人であるがゆえに、抽象的な人文学に対してあらかじめ胡散臭さをもっているから、というのは確かにあるだろう。しかしながら、思うにここでの「解明」は少し特殊な使い方をされている気がするのだ。少しちゃんと考えてみようと思った。

 人文学が言い放つ「解明」に違和感を覚えたときには、プラグマティズムの格率でもって検定にかけるようにしている。物事の存在をある超越論的な説明によって捉えたとき、物事がその説明によって成り立つ場合と、他の説明によって成り立つ場合とで比較をしてみるのだ。

 ところがなかなか、超越論的な見方の優位性は見えにくい。目の前のコップが私の経験に基づいてノエシスから構成されるのと、†神の御力†によって出現するのとで、説明の本質はあまり変わらないような気がしてくるのだ。むしろこうやって問うてみると、コップがただあるのだという自然主義的視点のほうがよほどプラグマティックであるようにも見えてくる。

 僕は現象学的視点は好きだし、プラグマティズムが万能の「調停者」だと信じたい気持ちもある。なので、これを機に、自分のなかで両者を調和させておきたい(哲学史上ではとっくになされているのかもしれないが)。

 遠回りかもしれないが、現象学、ひいてはこのような認識論が登場してきた時代背景に注目するようになった。そうして色々な本を読んでいるうちに少し発見があった。超越論的現象学は他者との共通了解を得ることを目的のひとつとしているわけだが、それはかなり多様な世界観をもつ人々とのそれを目指していたのでは、ということだ。

 各種科学と宗教と哲学理論とが入り交じる時代で共通認識を作り出すためには、客観存在ではなく認識をベースにするのはもっともだ。コップのような事物の存在であれば自然主義的に捉えることの悪さは目立たないが、神や超自我などの概念をいきなり客観的に持ち出されると厳しいものがある。なるほど。

 正直なところ、宗教がなすような大きな世界観の違いというのを肌で理解できていないので、やはり結論を出しにくい問題ではある。ただ、「すっごく違う世界の見方をする人」を想定すれば、超越論的現象学の気持ちとプラグマティズムの気持ちを馴染ませるのは難しくないなと思った。

【化学】化学結合論の本質(part 2)

前回のあらすじ

 化学結合の主役は電子の波だ。しかし、電子を語るにはシュレディンガー方程式を避けては通れないのだった…。

 

三次元極座標

 前回のシュレディンガー方程式の一般解をお伝えする前に、三次元極座標の説明をする必要があった。よく使われる三次元直交座標で電子軌道を記述することも可能なのだが、原子核の位置を極とした極座標で記述するとより便利である。

 直交座標(デカルト座標)で三次元を記述するとき、各点は変数の組  (x,y,z) で表される。これに対し、極座標では代わりに  (r, \theta, \phi ) を用いて座標を指定する。

 表したい点をPとすると、 r は原点からの距離OP、 \theta は動径(x軸)と直線OPとがなす角(  0 \le \theta \lt 2\pi )、 \phi はz軸とOPとがなす角(  0 \le \theta \lt \pi )だ。地球で例えるなら、 \theta が経度、 \phi が緯度に対応する。これによって直交座標と同じように、ときにはより簡便に、座標を表すことができる。

 

 例えば、半径1の球面を表現するためにはデカルト座標では  x^2 + y^2 + z^2 = 1 と記述しなくちゃいけないのに、三次元極座標なら  r = 1 だけで事足りる。うれしいね。

 

波動関数

 準備は整った。

 前回書いたシュレディンガー方程式の一般解、すなわち、あのシュレディンガー方程式を満たす関数  \Psi の一般式は以下のように書ける。式の中身が複雑なので、お茶を濁すような書き方をする (※注1 )。\begin{align} \Psi_{n, l, m} (r, \theta, \phi) = R_{n, l}(r) Y_{l, m} (\theta, \phi) \end{align} なお、 \begin{align} &n = 1, 2, 3, \cdots  \\\ &l = 0, 1, 2, \cdots , ( n - 2 ), (n-1) \\\ &m = - l, - (l - 1), - (l - 2), \cdots , (l - 2), (l - 1), l \end{align}である。

  R は動径関数、 Y は球面調和関数という(球面調和関数は英語でspherical harmonicsといいます。かっこいいね。)。ここで重要なのは、波動関数  \Psi の一般式が  r の関数と  (θ, φ) の関数との積で書けるという点だ。

 そして、式に現れている  n, m, l は量子数と呼ばれる数である。関数についている  n, m, l の添字は、それらの値が定数として入っているということを表している。上で示した式は  \Psi の一般式であるから、具体的な量子数の組  (n, m, l) を指定することで初めて波動関数が定まる。 n を主量子数、 l を方位量子数、 m を磁気量子数と呼ぶ。

  n, m, l の値の範囲にも注目したい。 n は1以上の自然数 l 0 以上  n 未満の整数、 m は絶対値が  l 以下の整数を、それぞれとる。

 特に、方位量子数  l は軌道の呼称と形状に大きく関わる。 l = 0, 1, 2, \cdots であるような軌道をそれぞれ s軌道、p軌道、d軌道、•••と呼ぶ。特定の軌道に言及するときには、主量子数も合わせて呼ぶのが一般的だ。例えば、 n=2, l=1 の軌道であれば " 2p軌道 " と呼ばれる。

 

 もうすこし数式を見る余裕がある方には、ちょっとここで、波動関数  \Psi(r, \theta, \phi) の大事な性質もお伝えしておきたい。

  \left| \Psi(r, \theta, \phi) \right| ^2 は位置  (r, \theta, \phi) における電子の存在確率密度を表す。確率密度とは確率を体積で割ったみたいなものである。したがって、三次元空間の特定の範囲で積分することによって、その範囲での存在確率が求められる。この  \left| \Psi(r, \theta, \phi) \right| ^2 を全空間  V の範囲で積分すると1になる。なぜなら、ある波動関数でかける状態をもった電子は全空間内のどこかに必ず(確率1で)存在するはずだからである。つまり、式で書くと以下。\begin{align} \int\mspace{-11mu}\int\mspace{-11mu}\int _{V} \left| \Psi(r, \theta, \phi) \right| ^2 dxdydz = 1 \end{align}

電子軌道の形状

 では、前章で述べた量子数  n, l, m に具体的な値を入れた波動関数の図、つまり電子軌道の形 (※注2) をいくつか見ていく。波動関数が正になるところは赤色で、負になるところは青色で図示してある。

 

 1s軌道( n=1, l=0, m=0

 2s軌道( n=2, l=0, m=0

 2p軌道3つ( n=2, l=1, m=0,\pm 1

 電子軌道はこんな感じの形状をしている。

 次回は、これら電子軌道からどのように原子が構成されているかを見ていく。

 

 以降はコラム的なパートです。

 

電子軌道とは何か(余談)

 ここまで、「電子軌道」というワードを特に説明なしに使ってきた。ここらで一度、認識を明確にしておきたい。

 軌道と言うと物体が描く軌跡のようなものをイメージする方がいるかもしれない。しかし、化学における「電子軌道」とは、いわば電子の波がとりうる状態のことである。その状態を記述するための関数が波動関数である。

 また、ある電子が実際にその状態をとるようになることを「軌道に電子が入る」という。これに限らず、化学では「モノAが状態Bになる」という事実を「AがBに収容される」というイメージないしアナロジーで述べることが多い。

 なお、原子内における電子の軌道のことを特に「原子軌道」と呼ぶ。なので本記事では「原子軌道」と呼んでもよかったが、誤解を与えそうなのでやめた。

 

※注釈1(水素様原子における  \Psi(r, \theta, \phi ) の一般式)

 本編では波動関数を以下のように表記してお茶を濁した。\begin{align} \Psi(r, \theta, \phi) = R_{n, l}(r) Y_{l, m} (\theta, \phi) \end{align}  式の形はどこかに載せておくべきだと思うので、目立たないようにここに書いておく。この動径関数の部分の一般式はこのように書ける。\begin{align} R_{n, l}(r) = \sqrt {{\left (  \frac{2}{n a_0} \right )}^3\frac{(n-\ell-1)!}{2n[(n+\ell)!]} } e^{- r/na_0} \left(\frac{2r}{na_0}\right)^{\ell} L_{n-\ell-1}^{2\ell+1}\left(\frac{2r}{na_0}\right) \end{align} ただし、 L はラゲール多項式である。

 球面調和関数と呼ばれる Y_{l, m}の部分の一般式は以下である。\begin{align} Y_{l, m} (\theta, \phi) = \sqrt{ \frac{2k+1}{4\pi}\frac{(l-|m|)!}{(l+|m|)!} \,}\,P_k^{|m|}(\cos\theta)\,e^{im\phi} \end{align} ただし、 Pルジャンドル多項式である。

 本編で式の中身を書かなかった理由を察していただけたと思う。

 

※注釈2(原子軌道の図)

 この「軌道の図」は量子化学において少し奇妙な存在だ。下の記事で軽く考察した。

lah-3fr.hatenablog.com

【化学】「原子軌道の図」の謎

 下のようなものが、しばしば原子軌道(電子軌道)の図として描かれる。化学科大学生は「これが軌道の図ですよ〜」と教わっているのではないだろうか。

 これは一体何なのだ?というのが本記事の問題意識である。

 

概要

 まずはじめに。これは波動関数の表示ではない。そもそも波動関数  \Psi(r, \theta, \phi) は三変数関数であるため、普通の方法では三次元空間に描画できないはずである。

 また、波動関数が正の値をとる領域を赤色で、負の値をとる領域を青色で、それぞれ塗っているのでもない。もしそうなら、無限遠方にまで色がついていなくてはならないからだ。ボールのように明確な境界をもっているのはおかしい。

 この問題について最近改めて考えたので、軽く記録を残しておく。

 

説A

 この図は「電子の存在確率密度に関する等確率密度面に、対応する位置の波動関数の符号に応じて色をつけたもの」である、という見方。

 等確率密度面は、電子の確率密度の等しい点を集合させて等高線のように描画した面である。電子分布を綺麗に表すのにしばしば用いられる。ただし、等確率密度面には符号がない。そのため、そこに波動関数の符号を付与することで、冒頭のような図になる、というわけだ。

説Aへの反論

 尤もらしい見方だが、困った点がある。確率密度は波動関数の絶対値の二乗をとったものである。その確率密度分布から形成した等確率密度面に対して、もとの波動関数から符号のみを抽出して面に「塗布」する、という操作はいささか不自然ではないだろうか。

 すくなくとも、単に「これが電子軌道です」と提示できる程度に必然性のある操作ではないと思う。

 

説B

 この図は「球面調和関数の三次元的表現」である、という見方。

 そもそも冒頭の図が書かれるときには主に電子軌道の大きさと符号をおおまかに捉えることに関心が向くのであって、詳細な数値には注目されない。そこで、波動関数の符号部分を司っている球面調和関数を描画したものが冒頭の図なのではないか、というわけだ。

 球面調和関数を三次元極座標で図示すると、すごくそれっぽい図になる。具体的には,

\begin{align} r = Y_{l, m} (\theta, \phi) \end{align}

のグラフを書くということ(rが負の部分は絶対値で描画し、色を変えることで表現している)。Wikipediaに綺麗な図があるので見てほしい。

ja.wikipedia.org

 

説Bへの反論

 これは良い視点だと思ったのだが、腑に落ちない点がある。 n=2 以降の軌道が同様の図で示されることがあるのだ。たとえば、1p軌道からさらに節の数が増えた2p軌道が、同様の図式で描かれることがあるのだ。

 1p軌道を2p軌道にしたことによって節の数が増えるのは、紛れもなく動径関数が変化するからである。球面調和関数のみを描画しているとしたら、2p軌道を書いたからといって1p軌道よりも節が増えるということはないはずだ。おかしい。

 

まとめ

 意外と難しい問題なのかもしれない。とはいえ、これ以上思い悩む意義も感じない。どなたか、考えがあれば教えてください。おわり。