Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

偶然性の倫理

 我々を構成する要素に対して我々の多くは愛着を持っている。他の人が持っているそれらよりも、自分が持っているそれらを優位に立てようとするときすらある。しかし、これは奇妙なことではないか。エッセンスとしては既出の思想だと思うけれど、以前に考えたことを雑に綴る。

 

 そのような構成要素の殆どは偶然性によって作られたものである。その場で湧き起こる意欲や感情、出自、民族、言語、生存環境、体質、そしてそれらによって大きく影響されるであろう思考方式に至るまで、偶然はほとんどを(解釈によっては全てを)支配している。

 

 偶然性に依存するということは、普遍性を失うことでもある。自分が何を正しいと思うかは、自分が用いる「最終的な語彙」や思考パターンによってかなり規定される。

 

 そんなことを言い出すと、我々は確信を持って物事を主張する礎を喪うかもしれない。これから言おうとしている思いが偶然の産物によって構成されている可能性に気づくたび、その価値が削られていくように感じるかもしれない。しかしむしろ、普遍的なままでは意味をなすことはできない。「無知のヴェール」を纏った者が政治について議論できないのと同じだ。必然性と有意義さは両立しない。

 

 全ての人が偶然性に振り回されていることを念頭に置きながら、自らは降りかかる偶然の賜物を愛でればよいのだ。必然でないことが直ちに価値を貶めるわけでもない。ただ、他のものでもよかったというだけである。

 

 こうやって「偶然性」が指すものを広く捉えることによって倫理にとって良いことがあると思う。意見の違う人を、自分がなり得た存在のひとつとして捉えられたら、また違った形での他者承認を行えるのではないか。自分や他者が持つ偶然性を承認して想像力を働かせることで、世の中はもう少し寛大になれる気がする。

 

 もちろん、自身の構成要素への愛着は防衛本能の延長なのかもしれないし、そう単純な話ではなさそうだ。生物としてのそういう側面が絡んでくると厄介だ。しかし、偶然性についてこのように考えることは、他者を承認するときの指針のひとつくらいにはならないだろうか。