Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

もう一段階の物心

 幼いときに描いた絵のことを思い出していた。

 お弁当のことを想いながらぐちゃついた赤い線を引き、最近見た乗り物のことを考えながら紫のクレヨンを走らせた。幼児は手がうまく動かないから、とかそういうのではない。僕はそれらを満足に表現したのだ。単なる身体的不器用さによって意図した描画がかなわなかったという気持ちはなかった。

 

 あのときは、認識そのものが混沌としていた。あるオブジェクトとそうでない部分とが、今ほどは明晰に隔てられていなかった。身近な体験で例えるならば夢の中だ。僕の生存に関わる事柄は大きく映り、今すぐ使わない道具は描画すらされない。視界は常に可塑的で、関心が移ると場面が変わる。人物の同一性すら脆い。

 小学校に入る頃には、キャビネット式の立体表現を使ってモノを描くようになっていた。「そう区切ること」と「そう描くこと」とはおそらく不可分で、どちらかが先行するようなものではない。世界は直交座標で綺麗に区切られてしまった。

 

 こんなことを考えたのは、今の自分の思考が記号的な制限を受けているように感じたからだ。むしろ、それが今の「何不自由ない」認識を実現しているともいえるような、そういう構造がある気がした。

 幼少の、これより前の出来事は想起できない、というような時点のことを「物心がついたとき」と呼ぶことがある。このタイミングよりも少し後に、記号や象徴によって世界を認識し始める瞬間があるように思うのだ。

 「ナマの認識」をしていた頃の記憶はほとんど残っていない。象徴化された記憶よりもデータ量が多いからなのか、あるいは、これまで何度か想起しているうちに記号的に再構成してしまったからなのか。

 

 この絵の記憶が、今残っている最後のストックだ。ふと、書き留めなくてはと思った。僕はこの先、それを喪失したことすら忘れてしまいそうだったから。