Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

言葉の正しさと準安定

 「姑息」という言葉は「その場しのぎ」という意味をもつのだということを、最近になって初めて知った。狡猾・陰湿であることを示す語として日常的にはおおかた通っているものの、辞書によると前者の語義のほうが「正しい」らしいのだ。私個人は日本語の語義については保守派で、「正しさ」が怪しいものは使わないようにしている(独擅場、固執、etc.)のだが、巷ではこの種の「正しさ」に対して批判的な意見もある。この奇妙な存在について考えてみた。

 

 日常的な使用においては、「正しさ」は特に問題にならない。純粋な言語ゲームだと考えるなら、日本語はむしろ日々の実践に合わせて絶えず変化してくれても構わない。「正しさ」が問題になるのは、もっと「ちゃんとした」言語実践の場だろう。典型的なのが学術論文や契約文書などだ。言葉を好き勝手に使われるのは紛争の原因にもなるので、安定した基盤が求められる。

 

 しかし、言葉の意味を完璧に保つのは二つの理由により困難だ。まず、語が指す意味を完璧に記述することがそもそも不可能だ(∵規則のパラドックス)。それに、もしもその記述がある程度叶ったとしても、全ての語の正しい語義を常に流布し続ける必要がある。語義を完全に安定させるのは現実的ではない。だとするならば、日本語の「正しさ」とは何なのか。完璧な土台が提供されないのであれば、そもそも「正しさ」など議論できるのか。

 

 そこで思うに、日本語の「正しさ」は、いわば準安定状態として存在するものだ。言葉の意味が安定しているという感覚を作り出す虚構の基盤でありながら、語義や用法の変化を幾分か許容するような柔軟な体系。この基盤から逸脱した用法がときどき見受けられるが、そのときには、「正しさ」の旗の下にその逸脱を阻止する保全運動がとられる。「正しさ」という基盤は、まさにその逸脱と保全の運動によって束の間の同一性を得ているのだ。

 

 そして、この準安定状態の保全とそこからの逸脱との釣り合いは、日本語が変化する周期を調整する役割を果たしているようにも思うのだ。日本語の語義について保守的に動いている私は、おそらく、日本語の準安定状態を保全する側に加担している。同様に、語義の逸脱を起こすような人間も必要だ。それは他の人に任せてしまおう。

 

 安定すべきか、変化すべきか、なのではない。その二者択一から逃れることで、他者が言語に対して取るポリシーの多様性に寛容になれる気がする。