Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

言語活動としての倫理的判断

 倫理学の書籍を読んでいると、どうも、「倫理」というものが特別視されすぎているという印象を受ける。倫理的判断は何ら特別な哲学的判断なのではなく、普通の言語活動の一環だと思っている。そういう視点からメタ倫理学的な考え事を書いていきたい。メタ倫理学と呼ぶことすら仰々しい。そう呼ばれているものの一部は、単に言語活動一般として分析されれば事足りるのではないか。

 

 倫理的判断ないし倫理的な発言とは、「善い」「悪い」「すべき」「それはダメでしょ」等の語群を使う発言だといえる。これらを「倫理的語彙」と呼ぼう。我々の倫理的判断の根拠や源泉をあたるためには、それら倫理的語彙の学習過程に着目する必要がある。我々は、倫理的語彙やその使用をどのように学んできたか?

 

 私たちは、倫理的語彙の意味を教えられた後にその用例を学んだ、のではないはずだ(そういう言語化ができないことは、ムーアが「自然主義的誤謬」の名で示している)。実のところ、ある出来事とそれら倫理的語彙が使用されている場面とが一挙に、言語学習過程の我々に与えられてきたはずだ。つまり、それら倫理的語彙は、それらが言及しようとしている事例とともに示されるのが常であった。

 

 そのとき、我々は単に語彙が使用されているのを見るだけであり、それが倫理的発言であるということすら明示されない。片付けをした直後に「えらいね」と発話され、別の園児を叩いた子に対し「ダメ」と発話される。そのような場面を幾度となく経験することで、私たちは「善い」「悪い」という語がそれぞれどんな場面に似つかわしいかを感じ取っていく。これが倫理的語彙、ひいては倫理の学習における実際の姿ではないだろうか。

 

 このような学習は幼少期のみに見られるわけではない。我々は幼少期のうちに倫理的語彙を「学び終わる」のではないのだ。それら語彙は日常の言語活動において絶えず用いられ、事例は常に蓄積されていく。

 

 そのような学習と同時に我々も、他の人の真似をして倫理的判断を下していく。ある種の場面や言動に対して、倫理的語彙を使うのだ。ここで考慮されるのは、類似する過去事例の存在と、そこで発揮された語彙の効力である。盗みを働こうとする人に対して「よくないよ」と発言することは、単に自然な発言だったというだけでなく、その盗みを抑止する効果も発揮してきたはずだ。私たちは、その語がその場に適合することを確信しつつ、その語彙が放つ効力にも期待して、その語を発するのである。中には「倫理的判断が難しい事柄」というものもあるが、それは類似する過去事例の不足を主張しているに過ぎない。

 

 これが、倫理的判断がどのように下されているか、の現状だ。では、この説明によってメタ倫理学の探究に終止符が打たれるのかというと、それは全く違う。世の中であまり明示されないが、メタ倫理学はふたつのことを探求していると私は考えている。①我々は現状どのように倫理的判断を下しているのか、と、②我々は理想的にはどのように倫理的判断を下すべきなのか、である。今回述べたのは①に対する回答にすぎず、そこでの自分の立場を整理したものだ。今後は②についても何か言えたらいいなと思っている。