Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

自由意志って何?

 自由意志とは、人間が自発的に行為できる能力のことだ。自由意志が存在するのか否かという問題は、人に行為責任を負わせるときの合理性を支えるからというのもあって、重要な哲学的問題のひとつとされている。

 この掴みどころのない概念について、今のところの自分の意見をまとめた。

両立論

 自由意志をどんなものだと考えるかについての立場は、まず大きく二分される。両立論(決定論と両立するという立場)と非両立論(決定論と両立しないという立場)だ。

 これらは、すでに意味内容が確立された自由意志なるものがどんな属性をもつか、についてではなく、自由意志というのをどう定義するのかという決定についての二つの立場だ。したがって、説Aと説Bとの間の排他的論争とは異なり、自由意志についての異なる言明として互いに両立しうる。

 もっとも、僕はかなり経験論に傾倒しているので決定論をナンセンスだと思っている。なので厳密には両立論者ではないのだが、一般には両立論に含まれる立場をとっていると思う。

 

自己制御感

 非両立論の立場をとるひとは、要するに「物理世界の将来は決まっているんだから、我々は自由でない!」みたいなことを言っているわけだ。言いたいことはわかる。因果の鎖が物理世界の中だけで閉じているのだとしたら、我々の心とか精神が「自由による因果性」を追加するすべはない。

 しかし、仮に決定論を受け入れたとしても、「そうは言っても我々は自由に行動できるじゃん?」という主張ができる。

 そういう、自己制御感とでもいうべき感覚を頼りに、両立論を推したい。未来が決まっていても自由な選択ができる、という感じ。

 感覚だけで主張をするのも格好悪いので、もうすこし理論的に整理したい。

 

経験論的なアプローチ

 記事の冒頭で、自由意志は人に行為責任を負わせる合理性に関係するので大事だと言った。ということは、後者から前者の輪郭を掴もうというアプローチができる。

 わかりにくいので言い換える。「自由意志」という言葉はちょっと抽象的で捉えどころが難しい。そこで、「自由意志があると、自分が行為責任を負わされることが理不尽なことではなくなる」という、自由意志がもたらす実際的な効果に着目する。「行為責任を負わされることが理不尽ではなくなる」という性質が、自由意志が何たるかを規定している、と捉えられる。したがって、「行為責任を負わされることが理不尽ではなくなる」条件が、そのまま自由意志の成立条件として挙げられる。

 それは以下のふたつではないかと思う。

  1. 自分の身体が行為Aをしたという記憶
  2. 自分が行為Aを意図したという記憶

 これらふたつを照合することによって反省的に確証されるのが「自由意志」なのだと思っている。

 

締め

 おわり。形而上学的な概念を解体するのは結構好きだ。またもう一歩考えが進んだら記事として残そうと思う。