Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

トランスエイジからトランスジェンダーを考える

 最近、トランスエイジという概念が注目を集めている。トランスエイジとは、身体の年齢(戸籍上の年齢)と自認する年齢が異なる状態のことだ。トランスジェンダーが比較的世間から受け入れられつつあるのに対して、トランスエイジ概念はかなり批判を浴びているみたい。まあいろいろ言われているが、僕たち(年齢違和を感じるか否かにかかわらず)が問うべきことはひとつだ。


 僕たちはトランスエイジという概念を認めるべきなのか?


 そもそもだけど、新しい概念が提唱されているわけだ。既存観念では十分でなく、トランスエイジ概念が必要だとされた理由があるはずだ。ここで、オッカムの剃刀を応用した考え方をする。トランスエイジという概念を使用せずしてその問題を解決できるんなら、そのほうがシンプルでいいはず、ということだ。


 本来であれば、そのあたりを踏まえて、トランスエイジ概念の必要性についてみんなで議論しよう!という話になる。でもここで問題がある。トランスエイジ概念の必要性は、年齢についての違和を感じる人間にしか経験できない、という壁だ。民族や宗教の問題においてもそうだけど、万人が経験できないということは対話において分断を生んでしまう。そして、対話ができないことをいいことに、雑多な概念が乱立してしまうこともある。もどかしいね。


 現時点でトランスエイジについてこれ以上の深掘りは難しそう。  むしろこれを機に、すでに世間から認識されているトランスジェンダーについてもう一度考えてみたい。


 トランスジェンダーとは、狭義には、身体性と性自認が異なる状態のこと。ここで重要なのは性自認という概念だな。ある見方をすれば、性自認とは、自分の望む扱われ方を性別の名で呼んだもののことだといえる。つまりそれは、性別によって扱われ方が変わるという前提に基づいている。ということは、世間が性別に関係なく人間を扱うようになってしまったら、性自認概念は根底から揺さぶられる。不思議な構造だなあ。


 さて、性自認についてもオッカムの剃刀風に考えてみる。  性自認という概念を持ち出すことなく、世間での扱われ方を変えてもらうことができるなら、そのほうがシンプルでいいよねって話。しかし、思うに、今の世間は性別によって人間の扱い方を変えることをやめようとはしない。少なくとも、すぐに世間が変わることはなさそう。そういうことを踏まえると、既存の「性別」という概念の力を借りることによって自らの扱われ方を変えることができる「性自認」概念は、かなり理にかなっていて有用なアイテムだなあと感心する。(何様?)


 ここで、「身体の性が本来の性別だ!」とか「性自認というのが真の性別なのだ!」などというのはどちらもナンセンスだ。なぜなら、ここで問題になっているのは「性という言葉をどのように用いることが良い社会に繋がるのか?」ということだからだ。


 新しい概念が生み出されようとしているとき、そこには必ずプラグマティックな問いが生じる。生じなくてはならない。