Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

Nobles Obligeと偶然性

 Nobles Obligeというのは素敵な倫理だなあと思う。これは端的にいえば、強者が弱者に施すべきだという原理だ。メリトクラシーの荒波に揉まれる今日この頃、このNobles Obligeの倫理をより原理から考えていきたい。


 僕がNobles Obligeを支持するのは、偶然性を日常的に感じているからだ。


 成功者が成功者であることができたのには、幾分かの偶然性が必ず寄与している。具体的には、生まれた家がもつ富や文化資本、特定の才能、そして、その能力が認められる社会にたまたま誕生できたこと、などだ。この世に成功というものがあるとして、そこに偶然性が多大に絡むことには疑いの余地がない。


 そして、それら偶然的なもの(coincidence)によって金銭などの意味で利益を得ることができるのには、十分な「試行回数」が必要である。
ここでいう「試行回数」とは、この世界に沢山の人間が生まれているということである。すなわち、ある人が利益を上げているとき、その人は利益を得ていない全ての人間に対して借りがある状態だといえる。


 その借りを返すべし、という倫理こそがNoblesse Obligeだと僕は思う。


 もちろん政府が貧富や特性などの偶然性による格差を埋めるべく活動しているけれど、それだけに頼ることはできない。なぜなら、支援される者と支援されないものとの境界で常に問題が発生するからだ。政府のような厳密な存在はあらゆる種の不遇さを漏れなく想定することはできないし、必要な施しを精密に見定めることもできない。


 では、Noblesse Obligeの倫理に従えば、恵まれない者への施しが正確に行われるのだろうか?


 それもおそらくNoだろう。重要なのは、その点を曖昧にしてしまうことだ。
 富める者が他者の様々な恵まれなさを感じ取り、そこに都度施しを行うことで、引き換えに道徳的利益を得る。この営みが社会に根付くことにより、「恵まれること」と「恵まれないこと」とを貫く基軸が多元化し、利益の概念が交錯する。こうして全てを有耶無耶にすることが、絶対的な不遇さの解消につながる気がしている。


 すごく曖昧な展望だが、これからの世の中はこういう徳によって良くなってほしいなあと思う。