Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

思考の切実さ

自分は頭が悪くなったなあと思う。

大学生のときは物事をもっと精緻に捉えていたし、起きているときは常に考え事をする習慣があった。社会人になってそれは明らかに失われてきている。内省力ないし思考力は僕が矜持をもっているところでもあったから、少し悲しい。

対処すべき問題が少なくなった、というのが原因としてあると思う。もちろん仕事や家庭で考えなくてはいけないことはあるが、そこでは自分の内に向かう思考が求められる機会は少ない。

学生時代には、精神的に自立が求められながら家庭に従属するという宙吊り状態にある。親族内で流通する倫理にも対処しなくてはいけない。

また、家庭や義務教育などのように自らの意思によらない所属をもつことになる。存在の仕方がすでに不安定だったのだ。

日常が、トピックに恵まれていた。

やはり結局、個人が熱心に回す内省的思考というのは、各人の抱える切実な問題に対する直接的あるいは間接的な対処の域を出ないのではないか。それ自身で完結する純粋な思考などなく、思考は常に何らかに対する応答なのかもしれない。

倫理学に励む気持ちなどが典型的だ。現実世界で自分が直面あるいは見聞きした倫理的理不尽への抵抗が、そのエネルギー源になったりする。

僕の思考は、そんな捻じ曲がった切実さを駆動力としていたんだと、最近になって気付かされた。

しかしながら、思考を回さなくても幸せに生きられるようになったというのは、考え事に暮れて必死に境遇を受容していた頃の自分がまさに求めていたものだ。ただ、なんというか、満足な豚になることをよしとしている自分がいて、旧友に見放されたような寂しさがある。次に不幸が訪れるまでの間、この形容し難い感覚と付き合っていくんだろう。