Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

原構造という不可解なもの

 最近フッサール現象学の書籍を読んでいるんだけど、そこで「原構造」という概念に違和感を覚えた。それは超越論的還元をしていく段階で、ノエシスに「あらかじめ」仕込まれている地平のようなもの。我々が把持や現印象からノエマとしての時間をスムーズに構成できるのは、いわば時間概念の雛形が「もともと」備わっているからでしょう?というわけだ。我々は白紙に直接経験を描き込むことでノエマを構成してきたと考えてきたのだが、そもそもそれは白紙ではなかったのではないかと。

 

 確かにそういうものの存在を考えたくはなる。そうでもしないと、ノエマノエシスにまたがるものの存在を説明しにくい。しかし、フッサールが原構造に言及したとき、自ら批判していた形而上学に彼自身が嵌ってしまっているように見えた。そこに踏み込むことによって現象学が汚れてしまうような気がした。そこには確実に、理念体ではなく生物としてのヒト特有の領野があるだろうから。

 

 構成作用と構成物との両義にまたがるものには、ヒトとクラゲを隔てるものが眠っているのではないか。たとえば「左右」の原構造がクラゲのノエシスに含まれているとは思えない。ノエシスノエマとの罔両には、ヒトの認識の特性が紛れ込んでいる。そういうものに言及してしまうと「判断中止」を続けるのは難しそうだ。「脳が〜」「進化が〜」とか言いたくなる。

 

 そもそも「あらかじめ」備わっているとはどういう意味なのか。現象学は時間すらその考察対象にするんだから、それは時間的な前後を指すのではないだろう。では原因と結果の関係のことなのだろうか。もしそうなら、因果性はエポケーを免れるほどメタな概念なのか?

 

 よく分からなくなってきた。もしかしたら、こんなふうに思索ではどうしようもない領域の存在を示唆したかったのかもしれない。言及するためではなく、言及しないための名指しなのかもしれないと。クラゲの件を思うと、急に優秀な概念に見えてきた。