Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

決定論とその周辺の話

 決定論まわりの議論についての今の見解をメモとして残したいなと思って書いた。自分の中でだいたい結論は出ているものの、他者に説明するときに上手く言葉が出てこなくて困ることが多いからだ。

決定論の主張

 まず、決定論の主張内容を確認したい。日本大百科全書の「決定論」の項目には、下のように書いてあった。

世の中でどういうことが起こるかは、未来永劫にわたってすべてあらかじめ決定されている、と主張する立場。

 要するに、決定論の意義と真偽を考えるためには、この「あらかじめ決定されている」が何を意味するのかを考えればいいわけだ。

 

実証学的プラグマティズム

 決定論の主張を分析するにあたって、実証学的プラグマティズムの理論を基軸にして考えたい。これは、一言でいえば「観念の意味は、それがもたらす具体的な結果にある」という主張だ。僕がいつも無意識に使ってしまってる主張のひとつなので、ここで明示しておく。

 これを採用することによって、議論が過度に抽象化されるのを防ぐことができる。思惟経済にかなう、なんて言い方もする。

 次の節では、これに基づいて決定論の主張を見てみる。

 

出来事の記録

 結論から言ってしまえば、「あらかじめ決定されている」という主張は無内容だ。

 一般に、何かの出来事の発生が「あらかじめ決定されている」というのは、未来にその出来事が発生することが、現在どこかの装置に記録されているということを指す。「装置」というのは、例えば、メモ帳、電子媒体、記憶などのことだ。

 ここでさらにプラグマティックに分析する。「記録されている」ということは、それが読み取り可能であるということでもある。解読できない文章をメモとは呼ばないし、絶対に思い出せないものを記憶とは呼ばない。再生可能性は記録の定義だ。

 しかしながら、未来の出来事は読み取り可能な形で記録されてはいない。すなわち、決定論の言う「決定されている」は、プラグマティックな「決定されている」の条件を満たさない。したがって、決定論は誤りないしナンセンスだということができる。

 

もっとそもそも

 そもそも、決定論問題の是非をプラグマティックに問いたいのなら、「決定論が成り立った場合と成り立たなかった場合とで、我々の実際的な経験はどのように異なるか」を考えればいい。

 もちろん、両者では何も異ならない。決定論と非決定論のどっちを採用したとしても、我々の経験を説明できるからだ。そう考えると、決定論の真偽を問うこと自体が、経験論的にナンセンスだといえる。

 

量子力学決定論

 決定論を否定する意見として、量子力学を援用するものがある。粒子Aが地点Xに見出される出来事は確率的にしか議論できないものだから、決定論は誤りだ、という主張だ。

 これはなかなかもっともらしいが、形而上学的な主張の前にはちょっと弱いと思う。

 決定論者の立場からすれば、「粒子Aが地点Xに見出されることを我々は確率的にしか予測できないものの、粒子Aが地点Xに見出されることは別途あらかじめ決定されていた」と反論すればいいだけだからだ。サイコロの出目と同様に、「発生確率についてしか議論ができないのは我々の無知ゆえである」という反論をされてしまうと、言い返しにくい。

 そもそもシュレディンガー方程式は経験則だし、コペンハーゲン解釈は現実の解釈のひとつにすぎない。そのままの形では、こういう形而上学的な主張の打破には向かないと思う。

 

運命論と決定論

 決定論と近しい主張として運命論がある。運命論は、未来が「あらかじめ決定されている」のだという主張において決定論と似ているが、決定論ほど強固な言明ではない(「運命は変えられる」とされる場合がある)。また、単なる決定論的方向性に加えてロマンティシズムのような側面を持つ(「まさに運命」などのニュアンスによく表れている)。

 そう考えると、「運命はあるか?」という議論は全く違った形をとりそうだ。これの説明には現象学あたりが役立つのではないだろうか。面白そう。