Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

超越論的「解明」の気持ち

 超越論的現象学において、「解明された」という言い回しに違和感を覚えることがよくある。現象学用語や特別な名辞を用いて出来事を記述したときに、しばしばこの言い方がされる。まあそんなもんだろうと場当たり的に済ませていたが、常にもやもやしていた。僕が理系畑の人であるがゆえに、抽象的な人文学に対してあらかじめ胡散臭さをもっているから、というのは確かにあるだろう。しかしながら、思うにここでの「解明」は少し特殊な使い方をされている気がするのだ。少しちゃんと考えてみようと思った。

 人文学が言い放つ「解明」に違和感を覚えたときには、プラグマティズムの格率でもって検定にかけるようにしている。物事の存在をある超越論的な説明によって捉えたとき、物事がその説明によって成り立つ場合と、他の説明によって成り立つ場合とで比較をしてみるのだ。

 ところがなかなか、超越論的な見方の優位性は見えにくい。目の前のコップが私の経験に基づいてノエシスから構成されるのと、†神の御力†によって出現するのとで、説明の本質はあまり変わらないような気がしてくるのだ。むしろこうやって問うてみると、コップがただあるのだという自然主義的視点のほうがよほどプラグマティックであるようにも見えてくる。

 僕は現象学的視点は好きだし、プラグマティズムが万能の「調停者」だと信じたい気持ちもある。なので、これを機に、自分のなかで両者を調和させておきたい(哲学史上ではとっくになされているのかもしれないが)。

 遠回りかもしれないが、現象学、ひいてはこのような認識論が登場してきた時代背景に注目するようになった。そうして色々な本を読んでいるうちに少し発見があった。超越論的現象学は他者との共通了解を得ることを目的のひとつとしているわけだが、それはかなり多様な世界観をもつ人々とのそれを目指していたのでは、ということだ。

 各種科学と宗教と哲学理論とが入り交じる時代で共通認識を作り出すためには、客観存在ではなく認識をベースにするのはもっともだ。コップのような事物の存在であれば自然主義的に捉えることの悪さは目立たないが、神や超自我などの概念をいきなり客観的に持ち出されると厳しいものがある。なるほど。

 正直なところ、宗教がなすような大きな世界観の違いというのを肌で理解できていないので、やはり結論を出しにくい問題ではある。ただ、「すっごく違う世界の見方をする人」を想定すれば、超越論的現象学の気持ちとプラグマティズムの気持ちを馴染ませるのは難しくないなと思った。