Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

奇妙な因果性の世界

はじめに

 私は、因果性は不思議で不完全な概念だ、と常に感じている。「因果性」という言葉は一般的ではないが、ようするに「Aが原因となってBとなる」「AであるからBである」と言ったときのAとBの関係性のことである。このとき、Aを原因、Bを結果と呼ぶ。

 我々は主張をするとき、任意の出来事には然るべき原因があること、そしてそれらは言語によって過不足なく記述可能であるということを、しばしば前提とする。本当にそうだろうか。

 非常に日常的な概念であるため、不思議さを感じない人が多いと思う。なので今回は、因果性がいかに奇妙な理念であるかを浮き彫りにするようなことを書きたいと思う。

 

因果の曖昧さ

出来事の必要十分性

 因果性とはどういうものを呼ぶのか。いや、「〇〇が〇〇を引き起こす」という関係性のことだ、簡単じゃないか、と思われそうだ。それは間違いない。しかし問題なのは「引き起こす」の意味である。どういうときに「〇〇を引き起こした」などといえるのだろうか?

 マッチを擦ったところ火がついたとしよう。この場合、火がついたことの原因はマッチを擦ったことだと言われるだろう。しかしながら、マッチを擦ることは火がつくことを必然化するわけではない。マッチが擦られても、酸素濃度が低ければ火はつかないし、通行人が水をぶっかけてきても火はつかない。逆に、マッチを擦ることが火がつくために必要だというわけでもない。火打ち石を使っても火はつくし、ときには落雷によっても火がつく。

 すなわち、「マッチを擦ることは火がつくことの原因であった」と語られるにも関わらず、前者は後者の十分条件でもなければ必要条件でもない。では一体、マッチは何をしたのか?どんなときに「物事を引き起こした」といえるのか?系が複雑化するにつれて判別が難しくなっていく。

 

もっと低次の因果

 もっとそもそもの話をしてみる。

 ボールがバットで打たれ、遠くへ飛んでいった、という状況を考える。ここで、ボールが飛んでいった原因はバットで打たれたことであると、我々の多くは考える。我々が想像するなかでは最も自明な因果性だと言ってよいのではないか。しかし、そこに因果があるという判断は自明に下せるものではない。なぜなら、我々が観測したのは、ボールが動いているバットと接触したこと、そしてその直後にボールが急速に運動を始めたこと、それら出来事だけであるからだ。我々は、それらの連接した出来事の間にある因果を直接知覚することはできない。

 すると、バットの運動がボールの運動の原因であるという図式は、我々の中に蓄積する幾多の観察によって、我々の中に構成されているものだといえる。2つの出来事がいつも連接して起こるということから、我々が勝手に見出したものだ。最も自明だと考えられる因果性についてすら、である。

 

否定的原因の是非

 また違う角度から、問いを作ってみる。

 あなたが今日公園に行ったとする。ここで、あなたの頭上に隕石が降らなかったことは、あなたが公園に到着したことの原因だといえるだろうか?もちろん、あなたの頭上に隕石が降らなかったことによって、あなたが公園に到着することが可能になったのは事実である。原因でないとは言い難いが、原因だとするのにも違和感がある。

 「〇〇ないこと」という否定的な出来事を原因に据えるから問題が起こるのだ、と思う人がいるかもしれない。しかしそれは問題ではない。たとえば、「宿題をやらなかったことが原因で先生に叱られた」は因果として認められそうである。

 

因果の条件

 難しくなってきた。ここまでの話をまとめると、因果として扱われるための条件には次のようなものがあると考えられないだろうか。

 

1.何か、基準となる「普通の状態」があり、そこから外れるものだけが原因としてみなされやすい

 マッチを擦ったり、バットを振ったり、宿題をやらなかったりする行為は「普通の状態」(定常状態)からの変化であるため、「原因」の座を得やすい。これに対して、「隕石が降らなかった」という事実は「普通の状態」の域を出ないため、出来事の「原因」としてカウントされにくい。この解釈はかなり直感的だし、現実にそぐっている気がする。

 

2.過去に「因果」として日常的に語られてきた事例と類似するものが「因果」とみなされやすい(家族的類似性)

 要するに、連接して起こる複数の出来事の組み合わせのうち、「因果っぽい」ものは因果、「因果っぽくない」ものは因果じゃない、とこういうわけだ。因果は「AだからBが起きた」「AがBを引き起こした」と表現されるAとBについての関係である。だとするならば、これまでに「だから」「引き起こした」などの語が用いられてきた状況と類似する状況では、因果が見出されやすいといえる。ふわっとしたモデルだが、こちらも現実をよく表しているのではないか。

 

 そして、もしかしたら上で挙げた1.2.は、実は同じことを言っているのかもしれない。

 この記事はこれぐらいにしたい。有意義なことを言えたかはわからないが、因果性が自明で明確な概念だと信じる人々の頭をすこしでも撹乱することができたなら幸いである。