Lahの部屋

落書き帳です。見たい人は見てください。

記述することのジレンマ

 今の自分の考え方の記述をしようと思ったことが何度もある。何年か経ってから読み返すことで、自分の思考方法がどのように変化したかを確認して楽しむためにだ。しかし僕の経験上、この試みはなかなか深いレベルでは成功しない。そして近頃、そういう試みはそもそも原理的に困難なのではないかという思いに至った。

 自分の考えを綴るとなると、当然「〇〇は××だと思っている」のような形式の文を使うことになる。そしてこの「〇〇は××だと思っている」は、「〇〇は△△なのではなく××だと思っている」の類いを無数に含意する。すなわち、「〇〇は××だと思っている」の記述によって、「〇〇は××」ではない可能性がかえって浮き彫りになる。自分の考えを命題Pで表現したことによって、Pではない状態に思いを馳せることが可能になってしまう。

 そのとき僕の中で一種の止揚が生じる。信じていたPは¬Pと折衷され、syntheseはさらに見つけにくいところに作られてしまう。命題の形になってしまった自分の考えを、僕はもう信奉することができない。

 かくして言語による記述は、どうしてもある〈現在地〉からの変位になってしまう。つまり、すでに〈現在地〉になってしまった、自分が定住してしまったその場のことを記述するのは最も難しくなる。見えるのは差分だけ。さらに、何との間の差分なのかすら分からない。

 「話す価値があること」「有意味であること」は、「他の可能性があること」「反駁可能であること」と表裏一体だ。逆に、「疑いようのないこと」「真理であること」は「無味乾燥であること」とこれまた表裏をなす。論理学におけるトートロジーのように、最も揺るぎないものは最も無内容だ。

 こうしてまた、何も書けなくなる。

 「私の語彙の使い方が魅力的に映るように話す」というRortyの言い回しが好きだ。個人がもつ考え方というのは命題に還元されるものではなく、ひとつの系(system)、あるいはひとつの言語ゲームの形式をとるものなんだろう。

 雑に思いを書いた。うまく表現できないけど、似たようなことを思っている人はいるんじゃなかろうか。考え方を断片として保管することはできそうだし、日記はこれからも書くと思う。